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8月6日、福岡県御井郡合川村大字足穂77(現・福岡県久留米市東合川)にて、髙嶋家の五男として生まれる。本名は彌壽(やじゅ)、字(あざな)は光雄。
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三井郡足穂尋常小学校(現・久留米市立合川小学校)に入学。
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福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)に入学。
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旧制第八高等学校(現・名古屋大学)第二部乙類に入学。
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東京帝国大学(現・東京大学)農学部水産学科に入学。
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同水産学科を首席で卒業。研究室では、魚の感覚に関する研究を行っていた。卒業時に「恩賜(おんし)の銀時計」授与の候補者に挙がっていたが辞退し、画家への道を進む。
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1月、東京・池袋の坂本繁二郎宅で開かれた第1回在京来目会(らいもくかい)の例会に参加。
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9月22日~26日、赤坂溜池 三会堂で個展を開催。(現在確認できる最初の作品発表)
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渡邊光徳、五味清吉、梶原貫吾、間部時雄、小室孝雄、前田慶蔵と「黒牛会(こくぎゅうかい)」を結成。
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大連で個展を開催。
この頃、東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷(現・渋谷区富ヶ谷二丁目)に住まう。 -
1月、北米、パナマ経由で欧州に向かう。2月、アメリカに滞在。その後、スコットランドのグラスゴー近郊に1か月滞在し、オランダ、ベルギー経由でパリに入る。イタリアではヴェネチア近郊のキオッジアに滞在し、パリに戻った。
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1月、帰国。久留米の生家に戻り、しばらくして自宅の庭に「椿柑竹(ちんかんちく)工房」と名付けたアトリエを建てる。
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博多で個展を開催し、滞欧期の作品を展示する。
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この頃上京し、東京市赤坂区青山北町4丁目(現・港区北青山)に住まう。
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空襲でアトリエが被災する。福岡県豊岡村田本(現・福岡県八女市黒木町)に住む姉スヱノの嫁ぎ先である中島家に疎開。
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この頃上京し、東京都港区赤坂青山南町3丁目(現・港区南青山)に住まう。
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示現(しげん)会会員・大内田茂士の薦めにより、第3回示現会展に招待出品。《静物》《春近し》《からすうり》を出品。
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青山のアトリエが東京オリンピック開催に伴う道路拡張のため、移転を求められる。
9月、千葉県柏市増尾三本木台(現・柏市増尾台)の人里離れた田園を訪れ、ここに転居することを決める。
10月、依頼したアトリエが完成。しかし意に添わず自ら改造工事を始める。 -
アトリエが宅地の造成予定地となり、移転を求められる。
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11月、移転補償として建てられた現・千葉県館山市西川名のアトリエが完成するが、井戸水が飲用できないことがわかり、入居しなかった。
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千葉県柏市増尾(現・柏市増尾4丁目)に転居。剣道場として使われていた藁葺き小屋を借り受ける。
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この頃から体調を崩す日が多くなる。
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7月、千葉県野田市特別養護老人ホーム鶴寿園に入園する。
9月17日、急性心不全により死去。 -
福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)で開催された「近代洋画と福岡県」に《すいれんの池》が出品される。没後初めて作品が紹介された本展が、野十郎評価の発端となった。
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福岡県立美術館で没後初の回顧展「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎展」が開催される。
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目黒区美術館、久留米岩田屋、大分トキハ会館で「髙島野十郎展」が開催され、地元を越えて野十郎の評価が広まる。
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柏市民ギャラリーで「孤高の画家 髙島野十郎展」が開催される。
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福岡県立美術館、三鷹市美術ギャラリーで「没後30年 髙島野十郎展」が開催される。
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石橋美術館(現・久留米市美術館)で「髙島野十郎 里帰り展」が開催される。
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福岡県立美術館、目黒区美術館、足利市立美術館、九州芸文館で「没後40年 髙島野十郎展」が開催される。
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福岡県立美術館で「新たな髙島野十郎展 4つのキセキの物語」が開催される。
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久留米市美術館、奈良県立美術館、瀬戸内市美術館、柏市民ギャラリー、高崎市美術館で「生誕130年記念 髙島野十郎展」が開催される。
3月、福岡県立バーチャル美術館内に「髙島野十郎の世界」がオープンする。