髙島野十郎は、本名を髙嶋彌壽(やじゅ)といい、明治23年(1890)に福岡県久留米市で生まれた。酒造業を営む髙嶋家は、地元でもよく知られる裕福な資産家であった。少年時代から絵を描くことに熱中していながら、学業にも秀でており、名古屋の旧制第八高等学校を経て、大正5年(1916)に東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業するという栄誉に浴するものの、周囲の期待に背いて画家を目指すことを決意した。当初は、坂本繁二郎や古賀春江など、野十郎と同郷の久留米出身の画家と交流したり、「黒牛会(こくぎゅうかい)」という小さな絵画団体に参加したようでもあるが、次第にそこから身を引き、画塾に通うこともなく、独学で絵の道を究める独立独歩の画業を選んだ。
この時期に描いた静物画や風景画に見られる、暗い色調やねっとりとした筆致(ひっち)には、大正期の洋画壇で活躍していた岸田劉生ら草土社(そうどしゃ)の画家たちや、当時盛んに受容されていたフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の影響を顕著に見てとることができる。対象と向き合い、じっくりと時間をかけて緻密に描き込んで仕上げるという細密な描写がしばしば見受けられるが、これは野十郎の画業全体を貫く特徴のひとつである。また、強靭な自意識や理想を胸に秘めたような、謎めいた雰囲気を有する自画像もいくつか描いている。絵を描くことに対して、どこまでも真摯であろうとする求道者的な在り方は、大正期の文化を席巻していた「白樺派」の理想主義にも通じるものがある。