昭和8年(1933)に欧州から帰国した野十郎は、久留米の実家に身を寄せ、その庭の一角に「椿柑竹(ちんかんちく)工房」と呼ぶ小さなアトリエを建てた。留学直後に郷里で過ごした数年間は、その後の自らの方向性を見定める大切な時期であったのではないだろうか。
昭和11年(1936)頃になると再び上京を果たし、現在の東京都港区北青山で暮らすが、ここに始まる東京時代は非常に充実した時期であったようで、作品制作に励むだけではなく、2年毎に東京で個展を開催し、積極的に作品発表を行っている。しかし、東京大空襲での被災を受け、現在の福岡県八女市黒木町に住んでいた姉の嫁ぎ先に終戦直前に疎開した。
戦前期においては、風景画や静物画を多数手がけている。細部に至るまで緻密に描き込む写実的な画風は渡欧以前と全く変わっていないが、渡欧前に比して、明るい色彩が使われるようになり、画面の明度が増したということが指摘できる。さらに静物画においては、斜め上から当てられた強烈な光線によって作られる影をうまく生かした作品がしばしば見られる。加えて《からすうり》のように、極めて安定した構図をとりながらも、躍動的な線や色彩に、妖艶(ようえん)さすら感じさせるような作品もある。このように戦前期の作品は、青年期と戦後期の折衷的要素を含む過渡期としての作品群として位置づけることができるが、戦後期に完成を見せた、端正で安定感に満ちた、いかにも野十郎らしい作品群とは異なる魅力をたたえている。