児島善三郎・中村研一・中村琢二―修猷館が生んだ3つ星

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江戸時代の藩校にルーツを持つ福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)は、吉田博、和田三造、安永良徳をはじめ、名だたる美術家を数多く輩出したことが知られています。ここでは、同時期に修猷館に学んだ児島善三郎、中村研一、中村琢二の3人の洋画家にスポットを当てます。若き日の彼らは、児島が明治42年(1909)に校内で設立した絵画同好会「パレット会」に集い、互いに切磋琢磨しながら、画家になることを夢見ました。そして卒業後、三者三様の独自の画業を開花させ、それぞれが画家として大成しました。修猷館の「パレット会」が生んだ3つ星たちの個性あふれる作品をご覧ください。

「梳る女」

児島善三郎

大正15年(1926)、1928年第15回二科展

油彩・画布

116.5×88.2cm

赤いビロード張りの椅子に足を組んで座り、髪をとかす肉感的な裸婦が描かれています。裸婦像は、西洋美術において伝統的に描かれてきた主題でした。児島善三郎は、留学中の課題のひとつとして、日本人画家が総じて苦手とする人体の重量感や立体感の表現を身につけるということを掲げ、裸婦を描くことに力を注ぎました。本作は、児島と同時期にパリに滞在していた佐伯祐三のアトリエにおいて描かれたものですが、彫刻のように立体感のある肉付けを施された裸婦の造形には、留学期に学んだ成果がよくあらわれています。

児島善三郎(こじまぜんざぶろう・1893-1962)

福岡市に生まれる。県立中学修猷館卒業後上京し一時、本郷洋画研究所で研鑽を積む。大正10年(1921)二科展に初入選し、翌年二科賞を受賞。同14年渡仏し、昭和3年(1928)に帰国。翌年二科会会員となるが、同5 年同会を脱退。同志らと独立美術協会を設立し、以後同会の代表作家として活躍する。西洋の模倣ではない日本人の油絵を目指し、南画や琳派の作風を取り込んだ装飾性の高い独自の絵画を確立した。
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