筑後洋画の系譜

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福岡県は、日本近代洋画史に大きな足跡を刻む著名な洋画家を多数輩出していますが、なかでも久留米を中心とする筑後地区では、綺羅星のごとく多くの洋画家が生まれており、洋画王国とも呼ばれているほどです。ここでは青木繁、坂本繁二郎、古賀春江をはじめとする、筑後ゆかりの10人の洋画家の作品を紹介します。彼らのなかに脈々と受け継がれる、筑後洋画のDNAを感じてください。

「宇朗像」

青木繁

明治37年(1904)

色鉛筆・紙

14.0×12.0cm

即興的でありながらも確かな描写力を感じさせる線によって、人物が描き出されています。ここに描かれているのは髙嶋宇朗(1878-1954)。近年では、髙島野十郎の長兄として注目されていますが、元々は県立中学明善校の後輩であった青木繁との交友あった詩人として知られていました。とくに、青木の代表作である《海の幸》(明治37年、アーティゾン美術館)の取材地となった房州の布良を、青木に勧めたというエピソードが有名です。この《宇朗像》が手掛けられたのも《海の幸》が描かれた年で、青木と宇朗が《海の幸》の制作を通していかに深く交わっていたかということを物語っています。そして、明善という場に由来する宇朗と青木繁の親密な関係は、当時彼らの後輩として明善で学業に励みつつも、絵描きという生き方を夢見始めていた野十郎にも確かな影響を与えました。

青木繁(あおきしげる・1882-1911)

福岡県久留米市に生まれる。明治32年(1899)、県立中学明善校を中退し上京、不同舎に入る。翌年東京美術学校に入学。同36年白馬会展に浪漫的な神話画稿を出品、白馬会賞を受賞する。翌夏、房州に遊び浪漫主義の記念碑的名作「海の幸」を制作、白馬会展に発表し一躍名声をあげるが、同40年の文展に落選。失意と困苦のうちに天草や佐賀、唐津などを放浪し、28歳で福岡市において死去。
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